はじめに

徳島に暮らしていると、阿波おどりの季節になるたびに街が熱気に包まれる。8月のお盆の時期だ。

どこからともなく響く鳴り物の音、浴衣姿の人々、提灯の光。
その時期、県全体がひとつの呼吸をしているように感じる瞬間がある。

しかし近年、この風景の中に微かな違和感を覚えるようになった。
それは、阿波おどりが「いつでも見られるもの」になりつつあるという現実と違和感である。

かつて、一年のうち数日しか触れられなかった“ハレの日”の踊りが、いまでは日常の中で、常設のエンタメとして消費されているように見えるのだ。

阿波おどりが「非日常」だった時代

阿波おどりは盆踊りの一種であるため、もともと阿波おどりは、盆の三日間だけ踊られる精霊送りの行事だったはずだ。

踊りは祈りであり、太鼓や笛の音は死者を弔うための静かな響きだった。その音が町に流れるのは、年に一度だけで、人々はその時を待ちわび、踊ることで「生きている」ことを確かめていたに違いない。

つまり、阿波おどりとは「非日常の象徴」だったはずだ。それがあることで日常が引き立ち、人々の暮らしに“間”が生まれていたんだと思う。

じゃなければ”ハレとケ”といった言葉は生まれなかったはずだ。

「いつでも踊れる」という違和感

現代の阿波おどりは、観光、イベント、地域活性という名のもとに、日常へと拡散している。オフシーズンにも演舞場で披露され、商業施設やSNSでも一年中“阿波おどり”が流れている。

僕の友人たちも阿波おどりの連に入っており、イベントがあれば呼ばれて踊りを披露する、そんな活動をしている。

3歳半になる娘は阿波おどりが好きで、「パパ〜、ドンドン見たい」と時々言ってくる。”ドンドン”とはもちろん阿波おどりの事で、娘からしたら大人たちがやりたい放題やってしまっているお陰で、既に”夏の祭り”という特別なものではないのだ。

娘を連れていけるイベント、なにかないかな?なんて探していると、近年では必ず阿波おどりがある。

この動き自体は阿波おどりを広めるためや、経済的には決して悪いことではない。僕もとても阿波おどりが好きだから、いつでも見られると思うと単純に嬉しい。

だがその裏で、かつて存在した”大切にしてきたモノ”が薄れている。そんな気がしてならない。

「祭り」と「日常」の境界が消えるとき、阿波おどりは“祈り”ではなく“ショー”になる。その瞬間に生じるわずかな空白――それが、僕の感じる違和感の正体である。

文化が「見せるもの」になった瞬間

この現象は阿波おどりに限らないだろう。日本各地で、伝統行事が観光資源として再構成されているし、それを観に外国人は日本に訪れる。

本来の意味や文脈が置き去りにされたまま、演出と照明の中で“再生産”されているのが現在と言えるはずだ。文化はいつの間にか、生きるための知恵から、映えるための構造へと変質した。

「誰のために、なんのために踊るのか?」

その問いが置き換わってしまっているのであれば、それこそ最も深刻な問題となる。

僕の父は8月16日が命日だ。だから盆踊りという存在意義を一般的な人以上に考えていたりする傾向があるから、余計に感じるのだ。

2022年に撮った映像を今見返してみる。

2021年はコロナによる阿波おどりの中止を経て開催された2022年の阿波おどり。確かにこの時、僕は”静かなる熱狂”のようなものを感じたのだが、現在はその熱狂と合わせ、社会の逆回転による反動として、文化すらもエンタメ化していっている(せざる得ない)という現状があるように感じた。

「未来が良くなるから」といった視点で現在地を考えるべきだが、正直何が正解かは未来になってみないと分からない。

それで言うと、ジャンププラスというもので、素晴らしい作品を読んだのでここに貼っておきたいと思う。

少しだけ、僕の違和感と通じるモノがあったので、ぜひ読んでみてほしい。10分もあれば読める、久しぶりに読んだ漫画だ。

しかし昔は手塚漫画を筆頭に、多くの漫画を読んでいたが今はすっかり読まなくなったな。久しぶりにまた読み返してみたい漫画が沢山ある。

昔気づかなかったことが今になると気づく。そんなことは多いものだ。