デジタルかアナログか。この問いを未だ心の中で繰り返している人たちがいます。

2026年にもなって…と言いたいわけではありません。
その葛藤は道具への敬意の表れですし、そこに留まること自体が悪いとも思いませんが、心底もったいないとは思いますし、そうしたことを表面化させることによって世の中に軋轢が生まれているのではないか?と少し極端かもしれませんが、そんなことを感じています。

今日はそんな話を。

どちらかを選ぶのではなく、両方の間を行き来することで生まれるある種の感覚について。
僕はそれを仮に「バター化」と呼んでみたいと思います。

二元論という三次元の罠

デジタルかアナログか。
0か1か。

この問いの立て方自体が、実はかなりデジタル的な思考だということに気づいている人は実は少ないんじゃないでしょうか。なぜならコンピュータは二進法で出来てます。つまりバイナリです。

「アナログの方が人間的だ」と主張する人が、実は最も機械的な二項対立に陥っている。皮肉ですが構造としてはそうなっています。
逆もまた然りで、「デジタルこそ正義」と言い切る人も、同じ二値処理の中にいます。

問題はどちらの陣営にいるかではなく、陣営という概念そのものが視野を狭めていることです。

デジタルとアナログの間には膨大な階調があります。
その階調に足を踏み入れることを多くの人が無意識に避けている。グラデーションの中に立つと、自分で判断しなければならないからです。

白黒つけていた方が楽ですし仲間もいるでしょう。

ポストパンクDEVOというバンドが70年代に掲げたDe-evolution(退化)の概念はここに繋がると僕は感じています。

テクノロジーが進歩しても、人間の思考はむしろ単純化していく。二元論でしか語れなくなること。

それ自体が一つの退化なのだと思います。

“They”は外にいない

クリストファー・ノーラン監督の2014年の『インターステラー』という映画があります。僕は非常に大好きな映画監督であり映画でもありまして、散々理屈を言っておいて最終的に「愛」という青臭い〆で終わるのがもう😭。大好き。

主人公クーパーたちはずっと”They”の存在を信じていました。ワームホールを開き、人類を導いてくれている高次元の誰かを。しかし物語の果てに明かされるのは”They”とは未来の人類自身で答えは外にはなかった。

最初から自分たちの中にあったということです。

デジタルかアナログか正解はどちらか。
この問いも同じ構造をしています。

「誰かが答えを持っているはず」と外をキョロキョロ見回しているけれど、答えは自分が何を作りたいか?何を届けたいか?の中にしかありません。

道具は手段であり、本質ではないのです。

五次元の本棚、あるいは階調の正体

『インターステラー』のテサラクトのシーン。
クーパーが辿り着いた五次元空間では、娘マーフの部屋の本棚が時間軸ごとに無数に並んでいました。三次元では「あの時」か「この時」かでしか捉えられなかったものが、五次元では全てが同時に連続的に存在していた。

これは、デジタルとアナログの間にある階調そのものだと僕は感じています。

三次元的な思考の中では「どちらか一方」しか見えません。しかし少し視座を上げた瞬間に、その間に広がる無数のレイヤーが見えてきます。

フィルムで撮ってデジタルで現像する。
デジタルで撮ってアナログプリントに起こす。
AIで構成を練って、最後は手の感覚で仕上げる。

どれも同時に存在していて、どれも一つの正解です。

二元論に留まっている人は、三次元の本棚のこちら側で「本が勝手に落ちた」と騒いでいるようなものなのです。

裏側に回れば全てが見渡せるのに回ろうとしないのです。

愛は道具を超える

『インターステラー』が最終的に提示したのは、愛は観測可能な力であるという仮説でした。アメリア・ブランドの言葉は劇中で退けられましたが、結果的にはそれが正しかった。クーパーが次元を超えて娘にメッセージを届けられたのは、科学ではなく愛の力によるものでした。

これはモノづくりにもそのまま当てはまると僕は感じています。

本当にいい写真、いい映像、いい文章は道具を超えます。
フィルムでもデジタルでもスマホでも、そこに作り手の切実さが乗っていれば受け手に届く。
クライアントにも届くはずです!

時間も空間も、おそらくメディアの違いすらも超えて届くのです!

逆に言えばどんな機材を使っても、そこに何も乗っていなければ何も伝わりません。道具論争に時間を費やしている間に、一番大事なものから目を逸らしてしまっている可能性があります。

愛は時空を超えます。
しかし、思考停止は何も超えません。

バター化という到達点

トラたちが木の周りをぐるぐる回り続けて、最終的にバターに溶けてしまう、ちびくろサンボの話を知っている方は多いと思います。

一般的にはこれを「退化」や「自滅」の比喩として読むことができます。二元論の周りを回り続ける人たちが、個としての輪郭を失い均質なものに溶けていくと。

しかし、僕はもう少し違う角度からこの現象を見るようにしています。

バターになるということは、境界が溶けるということです。
トラたちは互いにぶつかり合い、競い合い、ぐるぐる回った末に一つの新しい物質になりました。
元の形は失われましたが、そこから生まれたバターでサンボはホットケーキを焼き、美味しく食べた。

つまり、溶け合った先に新しい価値が生まれているのです!

デジタルとアナログの間を行き来し続けること。
フィルムの質感を知った上でデジタルの利便性を享受すること。
AIの速度を活かしながらも最後は手の感覚で仕上げること。

この往復運動の中で、二つの領域の境界線が少しずつ曖昧になっていきます。
溶けていく。
混ざっていく。

これがバター化です。

それは退化ではありません。むしろ、二元論を超えた先にある一つの到達点だと僕は思っています。

どちらかを選ぶのではなく、どちらも自分の中で溶かして、新しい何かに変えてしまう感覚。

五次元の本棚で全ての時間が同時に見えるように、デジタルもアナログも自分の中で同時に存在させてしまう感覚です。

階調の中を泳ぐ

僕が日々記事を更新しているのも、映像を撮り、コードを書き、AIを触り、山に入り、釣りをしているのも、これらを全部混ぜているのも、意識してそうしているわけではありません。
ただ、止まると固まる気がするから動いているのです。固まったら溶けられない。溶けられないということは、混ざれないということです。

『インターステラー』のクーパーは、愛の力で五次元から娘にメッセージを送りました。僕らにそこまでの力はないかもしれません。

しかし、自分が作るものに自分の体温を乗せることはできます。

デジタルでもアナログでもAIでも、そこに切実さが乗っていれば届くべき場所にはちゃんと届くはずです。絶対に。

つまり、愛がすべてを超えるのです。

デジタルとアナログの境界を溶かして自分だけのバターを作る。
そしてそのバターで何を焼くかは自分で決める。自分が決める。

僕はまだまだ撮りたいものも書きたいことも山ほどあります。
だから今日も階調の中を泳ぎ続けるのです。

あの時のクーパーのように。