冷徹な「計画」と、完璧主義者のマントラ
2025年の年末、インフルエンザの回復を図りながら2023年のデヴィッド・フィンチャー監督『ザ・キラー』を観ていた。

マイケル・ファスベンダー演じる主人公の殺し屋は、徹底して無感情だ。彼はターゲットを仕留めるために、数日間も同じ姿勢で待機し、心拍数を1分間に60回以下に保ち、自分自身を一個の精密なデバイスへと変貌させる。彼の脳内で繰り返されるマントラは、あまりに冷酷で、そしてあまりに機能的だ。
「計画に従え。予測しろ。即興はするな(Stick to the plan. Anticipate, don’t improvise.)」
この言葉を聴いた瞬間、僕はハッした。それは単なる映画のセリフではなく、僕たちが生きる現代社会そのものの写し鏡のように思えたからだ。
監督であるデヴィッド・フィンチャー自身、映画界きっての「完璧主義者」として知られている。納得がいくまで100回以上のテイクを重ね、俳優の瞬き一つのタイミングまでコントロールしようとする。今作『ザ・キラー』は、そんな彼自身の「完璧主義」という病理を、殺し屋というキャラクターに投影し、クールに、そしてどこか自嘲気味に描き出した自己言及的な作品のようにも見え、おしゃれ(トレント・レズナーとアッティカス・ロスの音楽!)ながらも若干コメディなのか?と思わせる部分もあり、非常の楽しめた作品となった。
劇中の殺し屋は、完璧な計画を立てるが、皮肉にも現場では常に「予測不能なノイズ」に翻弄される。フィンチャーは自身の完璧主義を貫き通しながら、同時に「現場で起きてしまうこと」を冷徹な視線で捉え直している。
僕たちが手にしているスマートフォン、日々触れるSNS、そして加速度的に進化するAI。これらすべてが、僕たちに「予測可能な未来」と「最適化された選択」を強いてくる。迷いは時間の無駄であり、失敗はコスト。アルゴリズムは僕たちが次に聴くべき音楽を、次に会うべき相手を、次に抱くべき感情すらも「先回り」して提示する。
僕たちは知らず知らずのうちに、フィンチャーの描く「キラー」のように、効率という名のマントラを唱えながら生きるようになっているのではないか?
2026年。僕はその流れに、明確なNOを突きつけたい。僕の人生というステージにおいて、あえて「即興(インプロ)」を、あえて「ノイズ」を、あえて「計算不可能なセッション」を呼び戻すこと。それが2026年を生き抜くための僕のスタイルとしたい。キラーを観てそう思った。
AIという「最適解」へのカウンター
今、世界はAIによって「答え」で満たされている。何を入力しても、数秒で整った回答が返ってくる。文章を書くことも、プログラミングをすることも、美しい画像を生み出すことも、かつてのような「産みの苦しみ」を必要としなくなった。AIは過去の膨大なデータから平均値を導き出し、もっとも「正しい」とされるルートを案内してくれる。
しかし、その「正しさ」の中に、僕という個人の輪郭は存在しているだろうか。
AIが得意とするのは、予測可能性だ。一方で、人間が最も人間らしくある瞬間とは、その予測を裏切ったときではないだろうか。フィンチャーの『ザ・キラー』において、主人公が窮地に立たされるのは、常に「予測不能な事態」が起きたときだ。彼はそれを排除すべきエラーとして扱うが、僕はそのエラーこそが”生命の輝き”そのものだと考えたい。
フィンチャーが100回のテイクを重ねるのは、作為的な「演技」を削ぎ落とし、俳優が疲弊した先に現れる「無意識の真実」を捉えるためだという。皮肉なことに、完璧主義を突き詰めた先に現れるのは、計算できない「生(Raw)」の瞬間なのだ。
2026年、僕はAIという便利なツールを使いこなしながらも、その「外側」にある領域を表現するつもりだ。AIが描けない線、AIが選ばない言葉、AIが恐れる「無駄な時間」。そこにこそ、僕や人間の居場所があると信じているからだ。
身体という名の「資産」——最強の利回り投資
「即興」や「ライブ」を謳歌するためには、絶対的な前提条件がある。それは、その場に立ち続けるための「器」、すなわち身体が健全であることだ。
ここで少し、冷徹な投資家のような視点を持ってみよう。
健康への投資は、いかなる金融商品と比べても、はるかに利回りが高く、しかし、それは唯一「後戻り不可」という残酷な性質を持つ投資でもあるといった文章を先日読んだ。
その文章によると、健康投資のリターンは「複利」かつ「非線形」で、特に若い時期からの投資は、単純なIRR(内部収益率)換算でも年利10~20%を軽く超え、そのリターンは指数関数的に増大していく。
逆に、一度損なわれた健康を「回復」させるためのコストは、予防にかかるコストの10倍から100倍に跳ね上がる。これは投資の世界で言えば、致命的なドローダウン(資産の下落)を食らってから取り返そうとする無謀な賭けに近いと書かれていた。ふむふむ確かになるほどと非常に納得だ。
それにもかかわらず、多くの人が「体調不良を根性で乗り切る」という生き方を選んだり、あるいは「国民皆保険があるからどうにかなる」という幻想にすがったりしている。
だが冷静に考えてほしい。疾病は年々増え続け、既存の制度はあきらかに悲鳴を上げている。この考え方は、日々に身体という貴重な資産を毀損し続ける「マイナス利回り」の生き方だ。
僕がライブやセッションをテーマにするならば、その土台となる身体管理には、フィンチャー的な冷徹さを持って臨む必要がある。「冷静・分散・長期・小さな改善」が鉄則だ。体を壊してからの健康投資は、もはや「利回り」ではなく「損失回避」にすぎない。
だ・か・ら・こ・そ!!!!
僕のはじめているパーソナルヘルスケアサービスにご参加いただき、健康への投資を多くの人にしてもらいたいと願っているのが2026年だ。
最高のパフォーマンス、最高の即興劇を演じるためには、まずこの「身体というハードウェア/ソフトウェア」を、最高の状態にメンテナンスし続けること。それが、人生というライブを継続するための、唯一にして最大の戦略なのだ。
「ライブ」——一度きりの不可逆性を生きる
デジタル化された日常において、僕たちは「いつでもやり直せる」という錯覚の中にいる。
メールは送信後でも取り消せるし、写真は加工して何枚でも撮り直せる。動画は一時停止でき、ゲームはセーブポイントから再開できる。しかし、本来の人生には「Ctrl+Z(取り消し)」なんて存在しない。
健康が「後戻り不可」であるように、時間もまた、強烈な一回性の中に流れている。
僕が2026年のテーマに掲げる「ライブ」とは、この「一度きりの不可逆性」を真正面から引き受けることだ。
それは単にどこかステージに立つことだけを指すのではない。日々の食事、誰かとの会話、散歩の途中で見つけた光の加減。そのすべてを「二度と繰り返されない本番」として捉える姿勢のことだ。
フィンチャーの映画作りは徹底したコントロール下にあるが、それでもカメラが回るその瞬間は、一度きりの光の定着である。
ライブの本質は緊張感にある。修正がきかないからこそ、五感は研ぎ澄まされ、細胞の一つひとつが集中する。コンテンツとして消費される人生ではなく、一回性の熱量として燃焼される人生。2026年の僕は、もっと生身のヒリヒリするような不可逆性の中にいたいってわけだ。
「即興(インプロ)」——不完全さという美学
フィンチャーのキラーが忌み嫌った?のか定かではないが「即興」。それは僕にとって最高の知的な遊びであり、生存戦略だ。
キラーは言う。「予測しろ。即興はするな」。
しかし、現実の世界は彼の計画をあざ笑うように崩れていく。彼は結局のところ、超人的な「即興」によってその場を切り抜けていくしかない。完璧主義者であるフィンチャーが、映画という制御不能な媒体を通じて描いたのは、「計画がいかに無力であるか」というクールな諦念かもしれない。
即興、すなわちインプロビゼーションの鉄則に「Yes, and」という言葉がある。目の前で起きた予期せぬ出来事を否定せず、一度受け入れた上で、そこに自分の解釈を乗せていく。
2026年、僕は緻密な計画を立てることはしない。僕にとって準備は「予定通りに進めるため」ではなく、例えば計画に相手がいるなら、相手に失礼のないように時間を確保するためのものであり、かつ何が起きても対応できるようにするためのものだ。
そして、計画通りに進まないことを「失敗」と呼ぶのではなく、「発見」もしくは「発明」と呼ぶ。そのマインドセットこそが、即興の本質だ。不完全であることを恐れず、むしろその不完全さが生み出す隙間を愉しむ。それが、AIには決して真似できない人間らしさだ。
「セッション」——共創という身体的経験
最後のキーワードは「セッション」だ。これは一人で完結する生き方からの脱却を意味している。
フィンチャーのような完璧主義者であっても、映画作りは一人ではできない。俳優、撮影監督、照明、美術……何百人ものプロフェッショナルとの「巨大なセッション」なしには、一本の映画も成立しない。
AIと対話していると、時折、鏡を見ているような気分になる。AIは僕の意図を汲み取り、僕が喜びそうな答えを返してくれる。それは快適だが、そこには「他者」がいない。他者とは、自分の理解を超えた存在であり、時には自分を否定し、時には予期せぬ方向へ僕を引っ張り上げる存在だ。
2026年、僕はもっと他者と混ざり合いたい。
誰かが出した予想外の一音に、僕の身体が反応し、また別の誰かがそれに色を付ける。そこには脳内の計算だけでは説明できない「身体的な共鳴」がある。
効率性や生産性の観点から見れば、他人と協調し、調整し、ぶつかり合うことは極めて非効率だ。しかし、そのフリクションからしか生まれない火花がある。僕はその火花で、自分の人生を照らしたいのだ。
未完成の傑作を目指して
2026年が終わる頃、僕の手元には何が残っているだろうか??
おそらく、キラーのような「完璧な任務遂行の記録」はないだろう。もしくはマイルス・デイヴィス60年代のライブ名盤「フォア&モア」のような普遍的に残る素晴らしい作品でもないだろう。きっと不揃いで愛おしい未完成の断片たちで、きっとどこか歪に違いない。
激しく響き合った誰かの鼓動、即興で切り抜けたあの瞬間の冷や汗、そして、身体という資産を大切に運用しながら、計画を大幅に逸脱した先に広がっていた、誰も見たことのない景色。
デヴィッド・フィンチャーが完璧主義を貫きながらも、その映画の端々に「制御できない人間臭さ」を忍ばせたように、僕もまた、自らの人生を精一杯コントロールしようと足掻きながら、同時にその計画が美しく崩壊する瞬間を祝福したいと思う。
AIがどれほど進化し、世界がどれほど「最適化」されても、僕たちの心臓は一拍一拍、異なるリズムを刻んでいる。その「ライブ感」こそが、僕たちがこの世界に存在している唯一の証明なのだ。
冷徹な「キラー」にはなれなくても、僕は血の通った「プレイヤー」として、この2026年という広大なステージに立ちたい。
2026年は予測不能な最高のセッションを始めよう。
Comments by daisuke kobayashi
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