音楽は時々“社会の温度計”みたいな役割を果たす。
オアシスの再結成ニュースが流れたとき、僕は懐かしさよりも、妙な違和感を覚えた。

あの「反骨の象徴」みたいな兄弟が、今さら“平和的に再会”してどうするの?と。ただ一方で再結成で盛り上がりを見せていた。つまりそれはもう、現代は怒りを売る時代じゃない、ってことなのかもしれない。

同じように、最近注目されているおとぼけビ〜バ〜を見ていても、似た種類のモヤモヤがある。オアシスのオープニングアクトも務めたようだし、フー・ファイターズやレッチリといった、現代の大御所のオープニングアクトを務めたようで、驚きを隠せない。なぜ?と。

確かに80年代あたりのアメリカのスラッシャー系ハードコアのような勢いはあるし、海外でもウケている。デイヴ・グロールが好きなのは理解できる。けど、どこかパンクというものを”音”だけで表現しているようにしか僕は感じない。

“社会を揺さぶる”というより、“うまく揺さぶられる”ための音楽に見える。
SNSで拡散されやすく、フェスで盛り上がりやすいように設計された“安全な混沌”。

ちなみに僕は10代の頃はパンク・ハードコアばかり聴いていたので、それなりに聴き分ける耳を持っている。

オアシス再結成とおとぼけビ~バ~。このふたつのバンドから時代を読み解くのであれば、もしかすると、僕らは反抗さえも消費する時代を生きているのかもしれない。

パンクの原点は「怒り」だった。1970年代のロンドンで、何も持たない若者たちが、音と暴力で体制に殴りかかった。セックス・ピストルズやクラッシュの“下品な正義感”には、言葉にならないエネルギーがあった。音が下手でも、真実はそこにあった。

それが80年代にはファッション化して、90年代にはブリットポップとして“国家の誇り”に昇華された。オアシスやブラーが掲げたユニオンジャックは、もはや“反抗”ではなく“ブランド”だった。それでも、まだそこにはギリギリの「リアル」が残っていた。

労働者階級の叫び、家族への愛、誇り。ノエルのギターの向こうに、現実の泥が見えた。

でも今は違う。

再結成されたオアシスを見ても、あの泥の匂いはしない。反抗が“懐かしむ対象”になった瞬間、それはもう反抗ではない。

「再結成」という言葉自体、どこか“商品名”のように響く。昔の怒りを、いまの平和な空気で包んで再販しているだけにしか過ぎない。

一方で、おとぼけビ〜バ〜のような存在は、SNS世代の“新しい反抗”を象徴しているのかもしれない。

怒鳴らず、壊さず、ただ“過剰なノイズ”で世界を笑い飛ばす。けれど、そこには痛みがない。怒りではなく、演出としての“狂気”。時代の中で「ちょうどよく不安定」な場所に立っている。

もしかすると、僕らの世代がパンクやブリットポップに抱いていた「本気で世界を変えたい」というエネルギーは、いまの時代にはもう、居場所がないのかもしれない。

だって、世界はすでに“変わり続ける”ことを前提に動いているから。そこでは、怒るより流される方が生きやすい。

でも、それでも違和感は消えない。オアシスの再結成を見て「なんか違うな」と思うその瞬間、おとぼけビ〜バ〜の音を聴いて「なんか違う」と思うその瞬間、そこに、まだかすかな“反抗の火”が残っている。

反抗はリユニオンできない。だけど、違和感はいつだって今にしか生まれない。そして、今を生きる僕らは、その違和感をちゃんと感じ取れる感性を手放さない限り、まだパンクの亡霊と共に生きているんじゃないだろうか。

そんなことを感じ、僕に教えてくれた出来事だったように思う。

フー・ファイターズもレッチリもリアルタイムで聴いてきた世代だ。しかしオアシスはリアルタイムで聴いてこなかった。それは当時から違和感があったからだ。

どこか作られた音楽にしか聴こえず、子どもならがらに僕の心には響かなかったのだ。

でも、20歳を過ぎたあたり、沢山の音楽を吸収している時期に僕はオアシスにも手を伸ばした。一気にハマった。

リズム隊は微妙だが、美しいリアムの美声とメロディ。当時”現代のビートルズ”と称されている意味がほんの少しだけ分かった瞬間だった。

そしてその後、結成したリアムの”ビーディ・アイ”も観に行った。2011年の震災直後あたりだったと記憶しており、日本の国旗をバックに一発目にビートルズの”アクロス・ザ・ユニバース”を歌った。

更にその後、社会を学ぶにつれ”クール・ブリタニア”を知ることとなる。そしてオアシスはクール・ブリタニアの一環だったことを知る。つまり、国によって作られた産業バンドだということだ。

その事実を知ったとき、少し冷めた。いや、正確には「ようやく腑に落ちた」と言うべきかもしれない。あの頃感じていた“どこか作られた匂い”の正体が、ようやく輪郭を持った。

パンクが怒りを燃料にしたように、ブリットポップは国家的な希望を燃料にしていた。だが希望はいつだって、誰かの手で都合よく形を変える。

オアシスの音楽が社会を映していたのは確かだ。だけど、その鏡はすでに“選ばれた角度”で磨かれていたのだろう。

クール・ブリタニア。“国をクールに見せる”ためのキャンペーン。
労働者階級のリアルを歌いながら、その背後にはブランディングの波があった。怒りをうまく整形し、輸出可能な「イギリスらしさ」として世界に売り出す――それが90年代のブリットポップだった。

その構造を知った今、僕はオアシスの再結成を「再生産」としてしか見られない。反抗が再演されるとき、それはもはや演劇になる。

それでも人々はそのステージに熱狂し、涙を流す。そこには「懐かしさ」という名の甘美な麻薬がある。もう戦う必要がない時代の“安全な反逆”。

そして、おとぼけビ〜バ〜がその文脈の先にいるとしたら、彼女たちはまさに「グローバル時代のブリットポップ」なのかもしれない。
国家ではなく、アルゴリズムが育てた“国際的な反抗”。YouTubeとSNSの波に乗り、世界中でシェアされる“無害な破壊”。

音は激しい。けれど、何も壊さない。そこが現代のパンクの限界であり、同時に強みでもある。怒りが消費される社会で、なお音を鳴らし続けるには、本気で怒るよりも、怒りのフォルムを上手に演じるしかないのだ。

僕はそれを責めたいわけじゃない。むしろ、そういう時代を象徴する存在として興味深いと思う。ただ、その音を聴いて「かっこいい」と思う前に、なぜそれが“かっこよく聴こえるように設計されているのか”を考えたい。

かつてのパンクは、体制を壊すために音を鳴らした。今の音楽は、退屈を壊すために音を鳴らしている。その違いこそ、現代を映す鏡なのかもしれない。

だからこそ、オアシスの再結成とおとぼけビ〜バ〜の熱狂は、まるで時代の前後を映す対照のように見える。

一方は過去を再演し、もう一方は現在をシミュレートしている。どちらにも、かつての“生の怒り”はない。けれど、そこに感じる“違和感”だけは確かに生きている。

音楽は時代の温度計だというけれど、その針はいま、限りなく“常温”を指しているように見える。

誰もが心地よく、何も壊さない音楽。それが今の「反抗のフォルム」だとしたら、僕はせめてそのぬるま湯の中で、小さくでも温度差を感じ取る感覚だけは、失いたくない。